ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
映画の話題がまた続く。日本映画祭が先週あって、家族4人でジブリの「借りぐらしのアリエッティ」を観てきた。どうもオーストラリアでは初公開らしい。入場料タダ。ブリスベンは日本領事館がチケットを無料で出してくれたのだ。13年も住んでいてこんなイヴェントがあるなんて知らなかった。サイトを見てみると、有料の都市もあって上映フィルムも違うみたい。しかし領事館の催しと言うことは日本の税金が使われていることだから、ちょっと罪悪感。でも日本の文化と芸術を知ってもらうお祭りなんだからね。
いい映画だった。子どもたちはもう100%大満足。ボクちゃんも楽しめたって。しかし、字幕のhuman beanってhuman being の間違い?当然字幕を読んでる人々はみんな笑ってた。あれはわざとなのかな。オーストラリアでは来年1月に封切の予定だ。その時には英語吹き替えになるのかな。そうそう、スピラーという弓矢を持った小人の男の子がジムシー(「未来少年コナン」に出てくる野生児)にそっくりでおかしかった。
アリエッテイの床下の住処はうっとりするほど素敵だった。やっぱり劇場で観るのはいい。よく考えたら、ジブリのアニメをシネマで見たのはナウシカ以来(それって84年のことだから27年前!?でも今でもよく覚えてる)・・・絶句。。。公式サイトによると、もともと宮崎駿と高畑勲が40年前に考えてた企画だったそうだ。宮崎駿が子供の頃読んで感銘を覚えた原作本メアリー・ノートン「床下の小人たち」機会があったら読んでみたい。
上映後ロビーでオーストラリアでジブリ作品(日本の名画も)を配給しているMadmanの人たち(マッド・メン?)が待ち構えていて、ヴィデオカメラ持って、「インタヴューに答えてくれたらポスターをあげるよ~」と言うので、迷わずピッピの背中を押す。普段恥ずかしがりやの彼女もこの時ばかりは特大ポスターにつられた。頂いてきたのがこれ。
方丈記 鴨長明
「ゆく河の流れ」
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖(すみか)と、又かくのごとし。
現代語訳:ゆく川の流れは絶える事がなく、しかもその水は前に見た元の水ではない。淀みに浮かぶ泡は一方で消えたかと思うと一方で浮かび出て、いつまでも同じ形でいる例はない。世の中に存在する人と、その住処もまた同じだ。
古典に親しむより
3.11以降、新聞や雑誌などで800年前の鎌倉時代初期の随筆「方丈記」のことを取り上げている記事などを何度か目にした。「元暦の大地震」には、凄まじい未曾有の天変地異の様子や、人々の心の移り行きが書かれてある。
もう半年くらい前になるが、解剖学者養老孟司さんと宮崎駿さんの対談集「虫眼とアニ眼」を友人から借りて読んだ。この対談の中でも「方丈記」に触れていたが、現代人がいかにおごり昂ってテクノロジーという文明に生かされているか、人間の生きる本能がどれほどそれで鈍らされているかを語りあっている。
宮崎さんの言葉で印象に残った箇所を少し書き留めておいた。
『もののけ姫』 の向こうに見えるもの
これから先は思いつき半分の極論になりますが、僕は地球の地殻変動や自然災害というのは、人間の営みとまったく無関係じゃないとどこかで思っているんですね。人間社会の行きづまりなんかとちゃんとつながってるんじゃないかって気がしてしかたがない。別に、この星が一つの生き物だなんて思ってるわけじゃありませんが、やっぱりそこに住んでいる生き物も、どこかで地球のサイクルの影響を受けているんじゃないかと。まあ、そんなこと証明のしようもないんだけど。平安時代が崩壊するときも、地震や雷や大火が次々と起こって、世の中終わりだって気分が蔓延したと言いますね。となると、日本がここまできたということは、もう富士山くらい噴火してくれないと、ぼくの仮説は証明されないと思ってるんですが(笑)。
『千と千尋の神隠し』 をめぐって
・・・たとえば環境問題という以前に、地球も今までの考えでは本当に今なでの考えでは理解できない凶暴な面を表しはじめたでしょう。人間がやらなくても、温暖化はするし、海面が上がって海が戻ってくるし、天変地異はドカドカ起こるらしい。だからこの子たちのためにアニメーションをと思っても、その前に、気の毒だなあ、苦労しそうだなって思わざるをえない。でも、やはりその子たちが生まれてきたことを、「間違っていました」とは言えないでしょう。
生まれてきてよかったねって言おう、言えなければ映画は作らない。自分が踏みとどまるのはその一点でした。そこで映画を作るしかないと。
今は傷つきやすい子供をいっぱい育てているんですね。たぶんそれは、ゆとりのある教育をすればいいとか、そういう問題ではないと思うんです。でもじつはアニメーション自体がそういう傾向に荷担しているんですよ。そのジレンマを抱えながら、じゃあやめますか、て言われるとね(笑)。
・・・中略・・・
でも、子どもたちの心の流れによりそって子どもたち自身が気づいていない願いや出口のない苦しさに陽をあてることはできるんじゃないかと思っています。つまらない大人になるために、あんなに誰もが持っていた素晴らしい可能性を失っていかざるをえない存在なんです。それでも、子供たちがつらさや苦しみと面と向かって生きているなら、自分たちの根の葉もない仕事も存在する理由を見出せると思うんです。
宮崎駿 養老孟司「虫眼とアニ眼」新潮文庫より
ファンタジーと言うのは決して現実逃避ではなく、想像することで生きる力と精神力を養うものだと思う。河合隼雄さんは「心の処方箋」で、日本人の精神力の履き違いを書いている。耐えるだけが精神力として求められるのは間違っている、と。
スポーツに「耐える」ことを期待しているのは、どうも人生全般について、日本人は「耐える」ことが好きなためではなかろうか。勝利を得るためには、耐えや苦しみがなければならない、と決めこんでいる。 / 少し考えてみるだけでも、人間の「精神」というものが、耐えることだけに用いられるほど貧困なものだろうかという疑問が涌いてくる。 / イマジネーションこそ、人間の「精神」のはたらきそのものではないだろうか。 / ・・・人生全般にわたる生き方として、そろそろ日本人は、耐える精神力というワンパターンを破るために、新しい精神力を養う必要があると思われるのである。
河合隼雄「心の処方箋」新潮文庫より
これからますます厳しい時代を生きていくだろう子どもたちに必要なのは、想像することのできるポジティヴな精神力を養ってあげることだとアリエッテイを観て思った。
最後にアリエッティの音楽をYouTubeから。作品中音楽がとても印象的で、ケルトっぽいなあと思って家に帰って調べたらセシル・コルベルというブルターニュの人だった。フランスのブルターニュ地方はケルト系が住んでいる場所である。アイリッシュと同じくフィドル、ギター、ハープやバウロン(太鼓)は耳にハートに心地よい。
子供たちもすっかり気にいて、早速ダウンロードしてた(本当に未来を生きているよ君たちは)。でもこの曲、なんか「500 miles」を思い出させるなあ。60年代にピ-ター、ポ-ル&マリーが歌って、80年代にはフーターズ(な、な、懐かしい!)もヒットさせた名曲。
YouTube で泣ける動画を見つけた。清志郎さんの付けた日本語の詩がいい。Leyonaというシンガーもすごいね。
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