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8月15日

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 LOTRのイヴェントは大成功を収めた。2日間で3回も同じ映画を観た子供たちは、続きが観たくて観たくてさっき完結編を借りてきたDVDで観終わったところだ(今日はブリスベンは祝日だった)。大きなスクリーンの迫力には劣るけどね。

 それにしても生のオーケストラが奏でる演奏と生の合唱が、指揮者の腕でスクリーンのフィルムと同時に進行していくなんて本当に凄い、もう夢のようなコンサートだった。

 プログラムの紹介ページによると指揮者のルードヴィッヒ・ヴィッキはスイスローザンヌ出身で音楽好き一家に生まれ、毎日歌ったり演奏したりして育ったそうだ。特に影響を受けたのがモリコーネなどの映画音楽だったというのが興味深い。なるほどそれだけ映画音楽に対する憧憬が深いと知ると、彼のこの神業のような指揮にも納得がいく。この上のアルバムは彼の指揮で昨年リリースされたそうだ。

 最終公演では演奏が終わってなんとうちのロッタがステージの指揮者のところまで下りていってコアラのぬいぐるみ(!)をプレゼントするという大役を果たした。私達は昼間の公演に行ったのでこの目で見ることができなかった。指揮者と握手したロッタの姿見たかった。でもほんとに合唱団の子供たちみんながんばった。中にはこっくりこっくりしてた子も居たんだって。かわいいなあ。

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 8月15日。

 今日は義理の父母の58回目の結婚記念日。昨日は義理母がグループ会食があって出かけなくてはならないというので、昼間の3時間義理父を残した家の留守番を頼まれた(最近こういうのがよくある)。彼らの家はここから車で10分ほど。介護のような責任は任されていない。シャワーの手伝いは毎日やってくる訪問介護員の役目である。私が手伝うのは留守番と食事の世話くらい。彼が寝ているほとんどの時間は、義理母のアンリミテッドのインターネットを利用してうちでは観られないYouTube三昧なので退屈しない。

 毎週日曜日は彼らに遅いブレックファストを作ってあげて(作るのはボクちゃん)一緒に食べるようになってもう2年くらいになった。医者から義理父がもう長く生きられないと告げられて以来ずっとである。86歳の彼はもう何も残っていないかのようにほとんど一日中静かに寝ている。それでも若い頃の、戦争時代の記憶だけは昨日のことのようにしっかり憶えているから驚きだ。というか、昨日のことだと彼は思っているのだ。第二次大戦が終わった時彼は19歳。空軍の看護士として働いていて、日本軍の爆撃で負傷した兵士の手当てをしたそうだ。

 

 

 67回目の終戦記念日。

 一年前に「暮らしの手帳:戦争中の暮らしの記録」を読んだ。友人のお母様が大事に持っておられた初版の貴重な本で、丁寧に頁をめくっていくと編集者のまえがきにまず胸を打たれた。

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 この日の後に生まれてくる人に

 

 君は、四十才をすぎ、五十をすぎ、あるいは六十も、それ以上もすぎた人が、生まれてはじめて、ペンをとった文章というものを、これまでに、読んだことがあるだろうか。

 ・・・・・・・

 それは、言語に絶する暮らしであった。その言語に絶する明け暮れのなかに、人たちは、体力と精神力のぎりぎりまでもちこたえて、やっと生きてきた。

 ・・・・・・

 しかし、その戦争のあいだ、ただ黙々と歯をくいしばって生きてきた人たちが、なにに苦しみ、なにを食べ、なにを着、どんなふうに暮らしてきたか、どんなふうに死んでいったか、どんなふうに生きのびてきたか、それについての、具体的なことは、どの時代の、どこの戦争でもほとんど、残されていない。

 ・・・・・・

 いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持ちで読むだろうか、それもわからない。

 しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。

 「暮らしの手帳:戦争中の暮らしの記録」より抜粋

 

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 詩人の石垣りん(1920~2004東京生まれ)さんも東京大空襲を生き延びた人だったそうだ。焼夷弾が雨のように降った夜、義母を先に逃がして、片手にバケツ一杯の水を下げて、火の粉の飛び交う中を父親と手を繋いで逃げ切ったと「ユーモアの鎖国」の中の 「炎える母の季節」 に書いてあった。「弔詞」は戦後20年経った時に彼女が職場の新聞のために書いた犠牲者への追悼の詩。

 

  弔詞 

       職場新聞に掲載された105名の戦没者名簿に寄せて

ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。    

ああ あなたでしたね。    
あなたも死んだのでしたね。    

活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとじられたひとりの人生。    

たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、 ドブの中で死んでいた、私の仲間。    

あなたはいま、    
どのような眠りを、    
眠っているのだろうか。    
そして私はどのように、さめているというのか?    

死者の記憶が遠ざかるとき、    
同じ速度で、死は私たちに近づく。    
戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。    

死者は静かに立ちあがる。    
さみしい笑顔で、    
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。

私は呼びかける。    
西脇さん、    
水町さん、    
みんな、ここへ戻って下さい。    
どのようにして戦争にまきこまれ、    
どのようにして    
死なねばならなかったか。    
語って    
下さい。    

戦争の記憶が遠ざかるとき、    
戦争がまた    
私たちに近づく。    
そうでなければ良い。    

八月十五日。    
眠っているのは私たち。       
苦しみにさめているのは    
あなたたち。    
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。 

 

 

 ちくま文庫「ユーモアの鎖国」 で、りんさんはこの詩への思いを「詩を書くことと、生きること」「眠っているのは私たち」で綴っている。

 ”とうぜんの義務だと思ってあきらめ、耐え忍んだ戦争。住んでいた町を焼かれても、人が死んでも国のためと思い、聖戦も、神国も、鵜呑みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか。私の場合ならないのです。
 戦争当時と別な状況。現在直面している未経験の事柄。新しい現実にたいして、私は昔におとらずオロカであるらしいのです。
 もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます。”   石垣りん ちくま文庫「ユーモアの鎖国」より抜粋

 

 

 67回目の終戦記念日。

 「未来世代へ責任がある 戦争と原発に向き合う」 中日新聞(東京新聞)社説

 広島、長崎の原爆忌を経て、六十七回目の終戦記念日です。東日本大震災と福島第一原発事故後の八月は、戦争と原発に向き合う月になりました。  

 毎週金曜夜に恒例となった首相官邸前の反原発デモは、ロンドン五輪の晩も、消費税増税法成立の夜も数万の人を集めて、収束どころか拡大の気配です。政府の全国十一市でのエネルギー政策意見聴取会でも原発ゼロが七割で「即廃炉」意見も多数でした。    

 二〇三〇年の原発比率をどうするのか。原発ゼロの選択は、われわれの価値観と生活スタイルを根元から変えることをも意味します。その勇気と気概、覚悟があるか、試されようとしています。 

 内なる成長信仰なお  

 それまで散発的だった各地の反原発抗議行動の火に油を注いだのは、関西電力大飯原発の再稼働を表明した野田佳彦首相の六月八日の記者会見でした。安全確認がおざなりなうえに、「原発を止めたままでは日本の社会は立ちゆかない」と、再稼働の理由が経済成長と原発推進という従来の国策のまま。「夏場限定の再稼働では国民の生活は守れない」とまで踏み込んでいました。

 反原発や脱原発の市民が怒る一方で財界、産業界が安堵(あんど)、歓迎したのはもちろんです。最大手全国新聞の主筆は野田首相の「反ポピュリズム」的決断と評価、「電力・エネルギー不安を引き金とする経済破局は避けられるに違いない」と論評しています。

 原発に関する世論調査では奇妙な傾向に気づきます。新聞やテレビの調査では、原発ゼロを求める声は、街頭に繰り出しているような勢いがなく、日本経済のために原発推進が少なくないことです。四十年前、水俣病の原因がチッソ水俣工場の廃液だったことが判明したあともチッソ擁護市民が少なくなかったように、フクシマ後も。われわれの内なる成長信仰は容易には変わらないようです。 

 倫理と規範と人の道

 しかし、経済以上に忘れてはならない大切なものがあります。倫理や規範、あるいは人の道です。

 作家村上春樹さんは、昨年の六月、スペイン・バルセロナのカタルーニャ国際賞授賞式のスピーチで、福島原発事故をめぐって「原発を許した我々は被害者であると同時に加害者。そのことを厳しく見つめなおさないと同じ失敗を繰り返す」と語りました。

 村上さんの悔恨は、急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、大事な道筋を見失ってしまったことでした。核爆弾を投下された国民として技術と叡智(えいち)を結集、原発に代わるエネルギーを国家レベルで追求、開発する。それを日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだった。そんな骨太の倫理と規範、社会的メッセージが必要だった。世界に貢献できる機会になったはずだったというのです。我々は原発に警告を発した人々に貼られたレッテルの「非現実的な夢想家」でなくてはならないのだ、とも。

 日本の原発は老朽化の末期症状から大事故の危険性があり、廃炉の研究も十分には進んでいません。毎日大量に生み出される低レベル放射性廃棄物で三百年、高レベルだと十万年の厳重な隔離管理が必要です。人知が及ばない時空、利便や快適な生活のために危険な放射性廃棄物を垂れ流しているとすれば、脱原発こそが、われわれの未来世代に対する倫理であり、人の道だと思えるのです。

 千年に一度の大震災と原発事故は、人々を打ちのめしましたが、日本が受け入れてきた西洋文明や思想、科学技術について考える機会ともなりました。文明の転換期のようです。成長から脱成長の時代へ。どんな時代、国、社会へと変わっていくのかは不確かですが、この国には信じ、愛するに足る人たちがいます。

 文学者のドナルド・キーンさんは、日本への帰化に際して、作家高見順が戦争中に日記に書いたのと同じ結論に至ったと打ち明けました。高見順は東京上野駅での空襲の罹災(りさい)民たちが、おとなしく健気(けなげ)、我慢強く、謙虚で沈着なのに感銘して、日記に「こうした人々と共に生き、死にたいと思った」と記したのでした。それは大震災での東北の人々と同じでした。

 

 幸せな生き方さまざま

 在野の思想家の渡辺京二氏が「逝きし世の面影」で紹介したのは、幕末に訪れた外国人の目に映った日本と日本人のすばらしさでした。

 「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」。貧しいけれど人間の尊厳が守られた幸せな人たち。当たり前のことながら、幸せは物質の豊かさではない。かつても、これからも、幸せな生き方はさまざまであることを教えています。

 

 

 こういう社説が今日読めて少し心が晴れるような気持ちになった。 

 

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コメント

オーストラリア北部(赤道の方よね?sweat01)は皆既日食だったんですね。yokoちゃんとこでは見られましたか?
http://www.youtube.com/watch?v=HeNg2TZ5rDs

suikaさん
sunGood morning!
ブリスベンでは全く日食は見られなかったんですが、その時間妙に薄暗くなってました。
お日様が出てるのに空が青くなくて不思議な雰囲気でしたよ。
写真が下のサイトに上がってます。
http://www.couriermail.com.au/travel/gallery-fn301512-1226516290488
5万人以上も世界からツーリストが集まったなんて、日食様さまですね。

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